三浦周次の世界へ

仏法・仏教・広宣流布の見解、そして池田大作が思い描いた世界広宣流布の方程式とその解を明らかにしていきたいと思います。
皆様とともに扉を開くヴァンダー・カンマー、三浦周次の世界にようこそ!!


法体とは南無妙法蓮華経
「法体の南無妙法蓮華経」と「三大秘法の南無妙法蓮華経」と「文字曼荼羅の御本尊の南無妙法蓮華経」と「唱題行としての南無妙法蓮華経」の違いを無視してはいけないのである。
日蓮出世の本懐である三大秘法の建立は、南無妙法蓮華経という法体を明かすことによって完成された一切衆生の修行の規範である。
その三大秘法を具体的に修行のために活用することを主眼とした形式が文字曼荼羅の本尊である。したがってこの文字曼荼羅の本尊そのものは、「法体」ではなくあくまでも修行の対境に過ぎない。
法体と規範と対境の違いであるが、これを単純に同じとしてしまうことは、日蓮仏法としては誤りである。見方、考え方によっては同じだと言っても問題はないのは、条件次第である。だが、厳密に言えば違いがあることは自覚しておいた方がいいだろう。
釈迦は一切の自然を存在させている法を妙法蓮華経と名付けた。日蓮は一切の自然を存在させている法には法体があるとし、その法体を南無妙法蓮華経と名付けた。
釈迦には法の体という発想はなく、法体が存在するといった発想もなかった。釈迦にとって法は、悟りの全てであった。したがってその法を存在させる本体が、存在するとは思っていなかったのである。
法体とは法の本地(本当の姿)のことである。法華経の文の底に意図的に法体を隠した訳ではなかった。日蓮が文の底と表現したのは、釈迦の無意識の領域にあった実感のことだろう。
妙法蓮華=衆生本有の妙理。妙法蓮華経=一切自然の諸法。南無妙法蓮華経=妙法蓮華経の本地。日蓮は妙法蓮華経が自らに帰命した姿をもって妙法蓮華経の本地とした。これは妙法蓮華経の自己の自己化である。
日蓮仏教の修行の在り方には、仏に帰命するという信仰の形式はない。日蓮仏教における信仰の在り方は、三大秘法の実践をすることによって自身に下種され仏性として具備されている南無妙法蓮華経を呼び覚ます、呼び起こすことである。これは日蓮仏教における感応の原理である。感応が仏と衆生との間に起きる現象(感応妙あるいは感応道交)と考えるのは、釈迦仏教の範疇である。衆生が感じ(機根)、仏が応じる(化導)。この関係が釈迦仏教なのである。
法体を明かした日蓮にとって久遠実成も、正法・像法・末法という時の分類も全く意味を持たなかったのであるが、時代の状況がそれを否定しえなかったのである。
また日蓮仏法と釈迦仏法における本迹とは、法体と法の違いにすぎない。また日蓮仏法と釈迦仏法における事理とは、法体と法の違いにすぎない。
法である妙法蓮華経は理の一念三千となる。しかしこの法を「諸法の心」とすることによって「事の一念三千」となる。その「事の一念三千」の法体は、事の一念三千の本地である。ゆえに「事の事の一念三千」となる。事の事の一念三千が「一切衆生の慈悲心」となって七文字の南無妙法蓮華経となる。「理」と「事」と「事の事」の違いはこのようになっている。
したがって「諸法の心」と「一切衆生の慈悲心」の違いは、妙法蓮華経と南無妙法蓮華経であるが、この妙法蓮華経は釈迦仏教の妙法蓮華経とは異なる妙法蓮華経となる。これが日蓮仏教なのである。
また久遠実成は釈迦の己心中の時。久遠元初は日蓮の己心中の時。久遠元初とは末法の今時なのである。
さらに根源という表現にも意味はない。根源という根拠などないからだ。そして根本、極限、究極も同様である。
故に御義口伝上の第四仏所護念の事において「法体とは南無妙法蓮華経なり。法体とは心と云う事なり。法とは諸法なり諸法の心と云う事なり。諸法の心とは妙法蓮華経なり。法体とは本有常住なり一切衆生の慈悲心是なり。」と仰せなのである。
まとめて並べてみると次のようになる。
理観法の妙法蓮華経=理の妙法蓮華経=理の一念三千=釈迦仏法
事観法の妙法蓮華経=事の妙法蓮華経=事の一念三千=諸法の心=日蓮仏法
事の事の一念三千=一切衆生の慈悲心=南無妙法蓮華経=法体=心=日蓮仏法
御書の中でよく「南無妙法蓮華経の五字」と書かれていることがあるが、ここで云う五字は、釈迦の妙法蓮華経(理観法)ではなく事観法の妙法蓮華経のことで「諸法の心」を意味している。
南無妙法蓮華経は「事の事」であり「一切の衆生の慈悲の心」である。「南無妙法蓮華経の五字」と表現されている処は、事観法のことを意味されているので文字の数え間違いなのではないのである。
また「妙法蓮華経を弘むべき本縁の国なり」の妙法蓮華経は、釈迦の妙法蓮華経のことではなく事観法の妙法蓮華経のことである。
「此の五字出世の本懐なり 之を名けて事と為す」も同じ意味となるので「事」というのである。「出世の本懐」というのは法体を南無妙法蓮華経と命名したことではなく三大秘法を建立することが出来たということである。本門の本尊に事観法の妙法蓮華経が含んでいるから「此の五字」と云われているのである。
また「所謂」と云われている所以でもある。これらは御書の前後を読み比べながら判断して欲しい。
とにかく日寛教学の影響が強くて日蓮を久遠元初の仏、本仏、仏の再誕、生まれ変わりにしたくてしょうがないらしい。
① 人間の神格化はどんな宗教でも大好きらしい。
② それと三大秘法のご本尊=南無妙法蓮華経
③ さらにご本尊に帰命したがる、仏に帰命したがる
④ 邪宗と同じように神や仏による守り、功徳、奇蹟を求める信心
この四点を何とかしないと日蓮仏教は誤解を招くことになる。



日蓮仏教とは
1、 日蓮が仏法の創始者(完成者)であるとの自覚と宣言
2、 根本仏の宝号を南無妙法蓮華経と名付けた
3、 南無妙法蓮華経が末法の法華経ともいえる
4、 日蓮の出世の本懐は、三大秘法の建立である
5、 三大秘法とは末法の戒定慧である
6、 釈迦の法華経、天台・妙楽の六大部は所破所用、所破借文して止揚する
7、 方便品、寿量品を唱えるのは仏を賛嘆するためではなく所破のためである
8、 教主釈尊とは、釈迦の釈尊一元論と同様の展開で、久遠元初、中間、末法となる
9、 日蓮は仏教の師であり末法の法華経の行者であり末法の教主釈尊となる
10、ただし人間の神格化(本仏論)、法の人格化(三身論)を否定する
11、報身仏とは人間が達成できる悟りの最高境涯の名称に過ぎない



心と命に潜む虚数の実在を!!
人間のコミュニケーションの不思議な事象を、日蓮仏法から解き明かしたいと思索してきました。そして心と命に潜む虚数の実在こそ鍵になると実感した。
日蓮仏法も人間コミュニケーションも虚数なくしては、語り尽くせない。
心は粒子の如く振舞い 命は波動の如く振舞う
心と命、その諸法を解き明かし、その実相を極めたいと思う



心とは何か。心の問題
「心は何処にあるの」と問う人がいる。
心は「生の心」と「死の心」がある。生の心を「法」と言う。死の心を「妙」と言う。
心とは妙法の事で「妙法とは何」と同様の質問となる。
すなわち心とか妙法は、単独に存在しているわけではない。
妙法蓮華経と南無妙法蓮華経という二面で存在しているのが妙法であり心である。
諸法の心は妙法蓮華経、一切の衆生の慈悲心を南無妙法蓮華経であると日蓮はいう。
諸法の心と一切の衆生の慈悲心は南無妙法蓮華経という法体に存在しているのである。
これが日蓮仏法である。
人間はこの法体を仏性として具備していると説くのが日蓮仏教である。
人間が具備している南無妙法蓮華経の性分に心は存在し、心は感応によって顕現する。
心とは人間そのもの
心とは自然そのもの

心は心と感応して顕現する
心は有情の心と感応して顕現すると感情
心は非情の心と感応して顕現すると情感
人間が考える心には、独りよがりの心、傲慢な心など実に様々な心があり、心は人間の感情そのものとも言える。これらの心を十種に分類したのが十界論である。

人間が具備している南無妙法蓮華経の性分は心に存在している。心は感応によって顕現する。心が南無妙法蓮華経となると心は法体となる。したがって「仏とは心」というのが日蓮仏教の眼目となる。
南無妙法蓮華経という性分を顕現すると仏の力用(仏力・法力)が発揮できるという。人間が抱える様々な悩みは仏の力用(仏力・法力)を発揮して自身の力で解決できるという。
神や仏の助けが無くても自分自身、人間自身で解決できるという。仏の力用(仏力・法力)を発揮する努力が日蓮仏教の修行法である。



命と生命の問題、心と命の問題
失くしたくないものに命がある。死を意識し実感として感じる命の尊さ。しかし心に対してはその実感が沸かない。生きていれば心は顕現するし存在する。けれども心の尊さという視点で心を考えることはない。
死を意識しても心の死と結びつかないのは何故か。命を亡くせば同時に心も亡くなると思っているから心だけを亡くす意味を理解できないのである。しかし本当に深刻なのは心を見失うことかもしれない。
生死の二法に差別なしといっても死ねば仏道修行は出来ないことにならないのか。死してのちに仏道修行をすることは可能だろうか。私が思うに、たぶん可能なんだと思う。だからその命は再び顕現することが可能なのだとおもう。
命には生の命と死の命がある。
心には諸法の心と一切衆生の心がある。
そして一切衆生の心には慈悲の心がある。
南無妙法蓮華経を法体と定義すれば命は理の一念三千、理の妙法蓮華経となり、諸法の心である事の妙法蓮華経は事の一念三千となる。一切衆生の慈悲心である南無妙法蓮華経は事の事の一念三千となり法体となる。
南無妙法蓮華経と法体を定義とした故に、仏は心となるのが日蓮仏教、命は釈迦仏教といえる。



脳の記憶と心に刻む記録との違い
心に刻まれた記録は、脳の記憶とは違う。
意識であれ無意識であれ脳で行うのが記憶。
脳は記憶し、命も記憶をするが記憶は忘失する。

脳は記憶をすることによってその存在を確立する。
命は感じる事象を記憶することによって心と今世を連携する。

生きること自体の様々な事象を命で感じる記憶が心に刻む記録となる。
心に刻まれた記録は、心と心の感応によって生じる心が、記録を蘇らせる。
心は記録をすることによって三世を存続させる。



心と時、心と時間
過去久遠から末法今日までの時間とは
時間の本地は時
時の流れが時間を顕現させる
時の流れとは法のことである

心と時間の問題。これらの思索がどんな意味をもつのだろうか。
確かに仏教は時を重要視していることは確かである
しかし仏教は時と時の間をあまり意識していない

久遠から末法へという時間の流れがある以上、末法の時の本地が久遠である。
故に時間が時になるとき、久遠は仏となり、心は仏になる

時にエネルギーという力の存在をそのまま認めることは難しいが、それでも時間の不思議な影響力は、時の流れとともに実感することはある。

池田思想の世界を読み解く

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平和・文化・教育の推進運動と世界広宣流布実現の方程式とその解

釈迦・日蓮の悟りは根本の法あるいは法体を覚知したである。そしてそのことから導かれる衆生の修行の在り方を示すことが出世の本懐と云われるものなのである。
天台は釈迦や日蓮のように根本の法や法体を覚知していないが、釈迦の覚知を理解して像法時代における衆生の修行の在り方を示すことできた。天台の出世の本懐が摩訶止観である。
日蓮は釈迦の覚知が根本の法のみで法体を明かしていない意味を理解していたのである。末法では法のみでは、末法時代における衆生の修行の在り方を示すことは出来ないことを知っていたのである。末法は釈迦仏法・釈迦仏教の法末・法滅であるからだ。末法における法は、根本の法の法体でなければならない。
しかし根本の法や法体を覚知しても、一切衆生は「それでは自分たちはどうすればいいのか」と問うことになる。覚知者は一切衆生に修行の在り方を示してこそ、悟りの意味と悟りの歴史性という出世の本懐が明らかになる。故に釈迦・日蓮と同等の位置づけが天台に与えられることになる。
今、末法における修行の在り方を日蓮が示したが、日蓮の三大秘法をさらに今日的に展開する必要を感じた人間が出現したのである。池田大作である。天台の位置づけと同様である。

池田の「平和・文化・教育の大道は、久遠元初以来、未聞の王道なり」は池田大作の悟りでもあった。この悟りから、池田の世界広宣流布の方程式は出来上がったのである。そして今日的な人間という衆生の修行のあり方と方途を指し示しことができたのである。

まずはSGIの設立である。次は広宣流布の定義の変更である。最後は戒定慧の三学の二重性の確立である。
したがってSGIの設立は、池田の出世の本懐となりSGIの世界広宣流布の活動は開始されたのである。
SGIは国によっては宗教団体、NGO,国連と連携するNPO等々であったりすることだろう。そこで池田の出した結論は「広宣流布とは世界平和の異名なり」である。
広宣流布運動が現実化した今日、個人的な修行の三学では、世界的な広宣流布運動、すなわち世界平和のための活動において、指導性に齟齬が生じることも事実であった。たとえば日本一国であればいざ知らず、世界平和実現にあっては他の世界宗教との交流といった視点も無視できないといったこともある。また世界的規模の運動は、何事も国連中心にせざるを得ないと思われる。さらに大きな問題は国際政治的な問題に巻き込まれないことだろう。世界平和を目指す運動団体は政治的活動の自粛も必然的であった。
そこで問題だったのが人間革命という表現である。池田の人間革命に対する思考は元来、総体的革命であった。池田は人間革命という表現を変更するために様々な手を打ってきた。
初代、二代と異なる池田の人間革命論はやがて人間復興論へと変貌していくのである。人間革命という表現から起きる誤解の解消のためには、やらなくてはならないことであった。
個人の人間革命はやがて社会変革へ、そして政治変革へと繋がる恐れを感じさせてはいけないのである。そうなればテロ組織と断定される恐れもあるかもしれない。
さらにこれらの社会的状況への対応、対処とは別にもっと根本的な問題を解決する必要があるのである。
広宣流布の新しい定義とともに必要なことは、世界広宣流布に適した仏道修行の定義であった。日蓮仏教にあっては、仏道修行の規範として三大秘法が存在する。三大秘法の原理を変更することはできないが、世界平和のための解釈の仕方を変えることが出来るのではないか。
三学の末法に適合した変更を日蓮は行ったが、その解釈を具体的に解説したのは日興の上行所伝三大秘法口訣である。日興は、戒定慧を本尊、戒壇、題目へと展開したのである。
同様の方法で本門の本尊・戒壇・題目を本門の平和・文化・教育に展開できれば、SGIを中心とした平和・文化・教育の推進運動は仏道修行となると池田は考えた。
また仏道とは仏法を行法に約した場合をいいます。そして修行とは行を修することで、仏道を修め行ずる視点(如説修行)と仏道を実践する視点(仏道修行)の二視点があるのです。
この修行と実践の二視点の違いは、個人的に行法を修行することと対外的に行法を実践することという違いがあるのです。
対外的に行法を実践することには、行法の如く実践する教条主義的側面(折伏)と、行法の如く修行する経験主義的側面(摂受)があります。これを仏法的にいうと折伏と摂受となって、単なる教条主義から解放されることになるのです。
世界広宣流布は組織的な運動であって、個人の信仰の問題ではない。世界広宣流布は個人を増やすことによって可能と考えるのは、あまりに現実的ではない。
そこで「広宣流布とは世界平和の異名なり」と考えるなら組織的な運動であってもなんら問題ないだろう。SGIや創価学会という組織は個人の信仰の激励、励ましにはなるがそれだけではない。むしろある程度の組織規模になれば、本来の目的である世界広宣流布を目指すことが大事だろう思う。
SGIの設立、広宣流布の新しい定義、三学の二重性こそ池田が導き出した世界広宣流布の三次方程式の三つの解なのである。故に平和・文化・教育の推進は仏道修行の三学となる。そして本門の平和・文化・教育の推進を、世界平和実現の三大秘法と定めたのである。
このことは、戒定慧の三学という仏道修行の規範を、末法の一切衆生の規範として三大秘法と定めた日蓮の出世の本懐と同等の意味を持つものである。
すなわち本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目が、世界広宣流布推進と実現という視点においては、本門の平和(定)=本尊・本門の文化(戒)=戒壇・本門の教育(慧)=題目の推進であると定めたことなのである。その具体的な実践・推進団体がSGIである。故にSGI結成こそ池田大作の出世の本懐となるのです。
平和を目指す心(慈悲心)を教育運動において(唱題)平和を目指す心を呼び覚ます。結果として本尊に唱える題目と同じと考えることが大事となる。
まず平和を目指す心を慈悲心と捉えることは不自然ではないだろう。したがって平和を目指す心を呼び覚ます行動を唱題行としても問題はないだろう。
したがってSGIを中心として平和・文化・教育の推進運動を実践することが、仏道修行になると定義するのである。これが池田の世界広宣流布を実現するための実践論である。
これをこじ付けだとか勘違い、妄想だとか言うのは勝手である。しかし現実に世界広宣流布を真剣に考えてみればいいだろう。
四悉檀の解釈で宗門は池田を批判したが、現実の世界広宣流布を考えたら、とても宗門の言う通りにはできない。全く不可能な話であった。真剣に考えている人間とそうでない人間の差でもある。
故に世界広宣流布運動は三学となる。仏道修行の二重性を確立した池田が仏道の師となる所以である。
日蓮仏教における信仰の在り方は、三大秘法の実践をすることによって自身に下種された南無妙法蓮華経が仏性として具備している故に、南無妙法蓮華経を呼び覚ます、仏性を呼び起こすことなのである。人間がこの法体を仏性として具備していると説くのが日蓮仏教である。
この原理は人間自身の悩みは人間自身で解決することを意味している。神や仏の救済では、あまりにも他力である。これが日蓮仏教における感応の原理であり釈迦仏教と大きく異なるところである。
三大秘法の二重性については筆者の論文「三大秘法論序説」を参照していただきたい。

100年、200年、300年先の日蓮仏法の研究者は創価学会の初代・二代よりSGIの初代会長を研究対象にすると思います。
そして日蓮仏法・日蓮仏教・池田宗と把握することが、SGIの歴史と思想を考えるうえで意味を見出すことでしょう。これが私の日蓮仏法史観です。故に池田思想の研究と実践こそ池田門下生の本道なのだと結論するのです。
この結論こそ「池田先生から我が身に充てて賜わる世界広宣流布の方程式とその解」なのです。

なおこれらの筆者の主張は、池田貴久氏以外の方の異論反論は一切受け付けません。筆者である私の独自の見解であることも明記しておきます。もし変更点や追加事項、削除事項等があれば筆者自身が納得したうえで行います。






ケネディ会見の中止
日本の政治家に利用される。(表向きの理由)池田はそんな臆病でもヤワでもない。「利用しようとしているなら逆にこっちが利用するまで」と考えるのが池田大作という人間なのだ。ケネディも政治家である。日本の政治家に利用されるのは、いやだが、アメリカの政治家ならいいのか。そんな理屈は通らない。
政治家は、池田が「ケネディに会うそうだが、党内で色々うるさいのがいる。私が抑えてあげる」と言ったそうだが、この申し出など単純に断るだけで済む。この会見は池田からの話なのではない。ケネディからの話なのである。横やりが入ったから会見を断ることの違和感を感じないのはおかしな話である。
① 死刑の問題(大統領を死刑にというのは過激するのでは。それほど重大な事というなら別の
表現、言い方があるのではと釘をさされた。ケネディからの注文はいくつかあったが、なかでも戸田を否定するような注文があり、それは出来ないと断わざるを得なかった。
② また会見を池田が断ったとしたら、断られたケネディからのコメントは何故ないのか。日本
の政治家に利用されるからなどの話しはケネディには伝えられていない。ケネディ自身が池田を利用しようとしていたのである。単に一私人としてお友達になりたいから会いたいなどという政治家は一人もいないだろう。一私人という表現は政治的理由が無いという表向きの定番の表現である。
③ 此のころの池田は、まだ人間革命が総体革命であるという概念が完成されていなかったので
ある。さらに宗門からの破門以後、池田は「人間革命は人間復興の意味なんだよ」と言っていた。意識内では革命という言葉は否定しているのである。ケネディにしてみれば人間を革命したのちに社会革命、政治革命にと繋がっていくのではという周囲の声を無視できなかったのである。
④ ケネディ側からの中止通達を受け入れざるを得なかった。(理由はいろいろあるだろうが一番はケネディからの会見内容にたいする注文を断ったからだ)
会見、会談という外交戦、国際的駆け引きは得するか存するかしかない。たとえばアメリカでの布教活動をケネディが保証する、あるいは応援するなどということはまず考えられないのである。核軍縮だって、日本の一宗教団体との話し合いなどでは何の意味もないことだ。何度も言うがケネディは現職の政治家であり、アメリカの大統領なのである。
表向きの理由はともかくも、会見するとなれば、全面的に事前調査、事前審査そして事前の資料収集は怠ることはない。損することのない外交は、相手が民間人であっても完璧でなくてはならないくらい慎重なのである。
誰がケネディの伝言を持って学会本部に来たかだとか、外務省から政治家にどういうルートで情報が漏れていたのかとかはほとんど意味がない。
また政治家ケネディの真意などは国際情勢や日本の立ち位置だとから判断すれば想像することは可能だろう。
しかし池田の方は核軍縮とアメリカでの布教活動に絞られているのでケネディに要求することは限られている。会って損することも少ないので会見を断る理由もない。またケネディと会見することによって、アメリカの会員に大きな励ましになると考えていたので中止になったのは残念であっただろう。
ケネディが池田の話を聞こうが聞くまいが、言いたいことを言ってくるという覚悟であり楽しみにしていたのである。






池田の病気

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池田が自身の年譜を2006年で終了させたのは何故か
私にとっても最大の謎なのである。事実、2010年の5月まではそれなりの活動をしていたのである。この問題を解決しないと私のHPは完結しない。

年譜が中途半端な終わり方になっている。そして小説人間革命もやっつけ仕事のような、年譜の丸写しのような詰らない最終巻になってしまった。何かとても味気のないつまらないものになっている。残念だと思う。
その原因は池田の後継者育成の失敗だろう。まともな後継者が育っていないから、彼らはどうしていいのか解らないのである。池田の顔色をみることしかできない弟子たちである。
2006年(平成18年)11月9日に原田稔が、第6代会長に就任した。また理事長に正木が就任した。この人事が全てを物語っている。原田を会長にした時点で自身の後継者育成が失敗であったことを自らが認めたことになる。
初めに後継者を意識したのは1975年頃である。1月にSGIを結成した後、自分はどのように世界に羽ばたくかを考え始めたのである。創価学会の第4代会長は、戸田の教えの如くとにかく公平な人でなくてはいけなかった。池田はそんな人材を探していたのである。
 池田は一人の青年に目を付けた。その青年の結婚相手のことも心配してあげた。日記も書くように勧めた。ともに記念植樹をしたり、霧島ではお風呂の中でも談笑した。そして宗門のことも何でも本音でその青年に話したのである。そして3年後の1978年池田は、青年に第4代会長になるように促した。
 しかし1979年の会長辞任劇は池田の構想をぶち壊す魔の反撃ともいえた。そして12年後の1991年、創価学会、SGIが宗門より破門された。池田は会長辞任以前から考えていた自由に世界を雄飛する構想を実現することができるようになったのである。この12年間の遅れを取り戻そうとフル回転の世界広宣流布闘争であった。
 2006年までの15年間において池田は、やるべきこと、残したいこと、伝えたいことなどほとんど終えた思いであった。特に戸田の遺言であった世界広宣流布の方程式、道標そしてその方程式の解などを残し終えたと実感していた。また2007年は池田が後継者にと考えた青年も職員の定年を迎え、退職していった。
2007年以降も以前ほどではなくても原田や執行部とは何度か会って指示しているが、池田の思いはほとんど通じてはいない。
後継者育成に失敗し次の手を打てないと全てがお粗末になる。また2010年以降、学園、大学への激励は前にもまして多くなっていったが、そうでない学生やその家族には寂しい思いをあたえてしまったと言える。夢や希望がまったく感じない創価学会になっていく空しさだけが残る。どんな執行部であっても学会員は真面目に戦い生きていることを忘れないでほしいものである。
カリスマ性や指導力、統率力、吸引力がなくても、公平な人が第4代会長にという戸田の思いを実現できなかった自覚。池田はなぜ後継者育成に失敗したのか。失敗したことの自覚が、2006年で年譜を終わらせた本当の理由であろう。
人を育てることと自分についてくる人の違い。自分についてくる人の中から後継者をと考えるのは普通の感覚だが、それでは公平な人を見つけることは出来ない。公平な人とは、もって生まれた天性である。そして誰にでもある弱みがほとんど無い人である。池田はあまりにも自分基準で後継者を考えすぎたと言える。自分基準についてはここでは詳細に語らないが、これは池田の人間性ともいえる。
2023年池田大作という人間は死を迎えたが、これは池田にとっての現実ではあるが、ゼロではない。生が有、死が無と言った有無の無はゼロではない。人間にとって死は唯一絶対であり公理であるが
有無の二道は本覚の真徳、自然の道理、有無に絶して非有非無に絶する。
生死の二法は一心の妙用、法性の起滅、死は法性の滅なのである。






別問題として過去の宗門問題に少し触れておくことにする。
宗門問題の真相

慧文を始祖とすれば南岳慧思、天台智顗と天台は第3祖であるが、天台宗の開祖といえる。同様に牧口・戸田の両会長が存在しても、今日の創価学会を作り上げたのは紛れもなく池田先生である。もっとはっきり言えば、両会長ではとても今日の創価学会はあり得なかったということである。これは三代会長の年譜を詳細に検討してきた私の率直な感想である。
池田門下生と戸田門下生の違いは、はっきりしている。戸田の命より大事な創価学会の組織という戸田の意志を受け継ぐ人々が戸田門下生である。したがって彼らは、創価学会が無ければ広宣流布は出来ないと考えている。
池田先生は池田の命より大事な創価学会の組織とは言ってない。むしろ先生は、世界広布に創価学会はいらないという。ニューヨークに本部を設置しユダヤ協会のような組織でなければ世界広布はできないとまで言われた。
池田門下生は、創価学会が無くなっても池田先生とその精神があれば、世界広布は必ず出来ると信じている。この違いは、池田会長勇退のときに顕著に現れた。
池田名誉会長の年譜がほぼ完成したが公開することにまだ躊躇している。それでも第一次宗門問題と第二次宗門問題の真相に近づけたと確信している。
 第一次宗門問題は、細井日達と石田次男の共同謀議によって引き起こされた。石田は創価学会を自分の理想の組織にしたいと考えた。そのためには二つの方法が考えられた。宗門を利用して自身が会長になること。もう一つは宗門との間に入って陰で操ることだった。そして戸田先生の時代に帰えらねばならないと考えた。石田は悩んだ末後者を選んだ。池田会長の勇退は、宗門の最高責任者と石田次男による謀略で実行された。
山友は、そのための扇動者として利用したのである。「ある信者からの手紙」を書いた山友が浜中を通して光久(仲居)の女房に清書させ それを日達にだけ見せるように指示した。山友の具体的な反逆行為はこの時点から行動となって始まっている。創価学会の顧問弁護士である山友が反逆の行動を起こした理由は、金を手にするためのマッチポンプである。したがって自分の行動を学会側に知られたくはなかったのは当然である。
この手紙を読んだ日達は、石田に電話で相談した。浜中からの報告で山友が書いたものであること、山友がまだ学会の顧問弁護士でありこの煽動に乗っても大丈夫かと相談したのである。二人が相談した結論は、池田包囲網に山友を利用しようということであった。もともと日達は、別法人の宗教団体の会長人事に口を出す権利などないことはよく理解していた。したがって創価学会の問題は原則内部問題で処理することになる。
日達と石田と山友の三人はそれぞれの思惑を抱えながら歩調を合わせたような行動を開始した。すべて石田の指示である。日達は学会を宗門に完全に従属させるためであり、石田は学会を裏で操るためであり、山友は両方から金を得るためである。
昭和53年1月18日のことである。翌日の19日に、若手の活動家僧侶約140名の前で山友の手紙を公表することを日達は指示した。びっくりしたのは山友と創価学会の執行部だけである。自分が顧問をしている組織団体の悪口をいう弁護士を普通なら誰が信用するだろう。
昭和53年5月3日 先生は、山友に『四面楚歌 君がおわせば 王の道』との色紙を贈っている。自分の裏の行動を池田会長に知られていないと確信した山友は、その後も調子に乗って日達に献策書を提出していった。
宗門の海外部の設置もその一つである。海外寺院建設用地による土地ころがしを目論んでいた。これは、墓地建設の土地ころがしで吸ったうま味の再現である。日達も池田会長に会えば学会と宗門は仲良くして行こうと言いながら山友の献策を利用していったのである。これはすべてが表面化した時も責任を山友一人に転嫁するためである。石田の謀略が計画通り進行していったのである。日達の行動は石田と協調した歩調合せである。したがって宗門と上手く好くかに見えながらその都度壊れていったのである。
 法主からの院達を若手僧侶が無視するような行動が、現実に起きることはない。僧籍の剥奪、破門を覚悟しなくてはいないくらいの問題である。若手僧侶の声を無視できないという装いをとりながらの扇動である。
日達は池田会長を交代させればすべては上手く好くと単純に思っている。しかし学会の内状に詳しい石田は、学会内部に手を打つ必要があることを熟知していた。石田は日達に会長候補の名前を若手幹部に絞って伝え、日達からそれを池田会長に進言させていた。このことが「カノッサの屈辱」と呼ばれる事件である。これが大田の家での逆鱗騒動へと繋がっていった。
石田が次期会長候補に若手を推薦したのは二つの理由からである。一つは扱いやすいからであり もう一つは福島が会長になっては困るからである。福島源次郎の追い落し策は、石田の作戦通りに進む。池田会長を外しても次の会長候補の一番手である福島は目の上のタンコブでもあった。54年の3月に大牟田での発言の揚げ足を取り「猊下が怒っている」と山友から先生に伝えさせた。54年4月、池田会長の勇退とともに福島の辞任が発表された。
第四代会長が北条浩に決まることに対し日達は、扱いやすい若手にしたかったが、石田は北条の方が学会と池田会長に止めを刺すための仕上げがし易いと日達に進言し日達も了承した。北条を攻めれば学会と池田会長を守るために黙らせ従わせることが出来ると読んでいた。数年後に会長を秋谷にする算段であった。いずれ党の委員長も石田幸四郎にしたいとも考えていた。これで宗門と創価学会、公明党は思うようになる。石田の謀略の筋書きである。54年5月14日 山友が大講頭に任命されたのも石田の入れ知恵である。この時点で山友を表に出すが、石田は最後まで表面に出ないようにしていた。学会側もこの人事には仰天した。誰もが何故という疑問を持ったのである。会長勇退の3週間後である。
宗門と石田は北条を攻め立てた。もともと宗門の経理に口を出してきた北条は、宗門の敵でもあった。さらに北条を攻めることによって、先生を守ろうとする北条の手足を雁字搦めにしていく作戦は効を奏したといえる。ところが石田の謀略に誤算が生じたのである。それは三つあった。
一つは日達の死である。次期法主は誰になるのか予想すらできなかった。日達からは何も聞いていなかったのである。二つ目は北条の早死である。完全に学会を傘下に収める前に死んでしまったのである。それでも秋谷が会長になったことによりしばらく静観することになる。
宗門は池田先生を完全に抹殺することしか頭にない。秋谷では石田の手前あまり学会攻撃は出来なくなっていた。その代り学会にやらせたのは寺院の建立である。三つ目は日顕が思った以上に愚かだったことである。日達が死に北条が死んで、日顕と秋谷体制になったことで、静観してきたのだが、山友と日顕という最悪の組み合わせがすべてをぶち壊す時が到来する危険を感じてきた。
第二次宗門問題である。調子に乗った宗門は、C作戦を断行していく。そうすれば学会を完全に掌握できると思考は単純である。日顕の単細胞的行動に一抹の不安はあった。法主絶対主義は、法主本仏論と共に誤りであることを確信していた。このままでは池田名誉会長の破門だけでは終わらないかもしれないという危惧をいだいた。
そんな危機感が彼を突き動かし決断させたのが、1986年の脱会宣言である。「内外一致の妙法」という批判書を公表せざるを得なかったといえる。福島や原島から聞かされてきた内部造反組(山崎(尚)、上田、桐村、野崎(兄・弟)、宮川、八尋)と秋谷を引き連れて、池田批判の先頭に名乗り出て学会の破門、宗門からの離脱だけは避けようとしたのである。石田の脱会宣言から3か月後に福島も脱会宣言したのである。彼らは自分の後ろ盾に巡り合ったような気になったのである。二人とも石田の子分のようなふるまいをするようになっていく。
第一次宗門問題は、学会側の黒幕でもあった石田の反逆が明確になったことにより、宗門問題の現状を会員にすべて公表させるという池田名誉会長の決断がなされたのである。石田が脱会宣言した翌月の2月22日、師弟会館で行われた金城会総会の席上、宗門と石田への反撃宣言をしたのである。こうなれば行き着くところまでいかなくては決着はつかない。とはいえ学会から宗門離脱の宣言はしない。あくまでも信徒を切り捨てた形での決着を想定した。
五年後に石田の危惧は現実となる。この五年間、何も出来なかった自分を後悔した。山崎正友に関して義弟の秋谷に任せてきっていたことも手落ちであった。
石田が死ぬ(1992年平成4年2月4日膵臓ガン)3か月前の創価学会の破門(1991年平成3年11月29日)という宗門の暴挙を見て石田は、戸田先生に申し訳ないことをしてしまったことにようやく気付いたが、時すでに遅しであった。創価学会と宗門の分離を目の当たりにして自分がやってきたことが失敗であったことを自覚した。
しかし人は皆、自分の信じる生き方を生きてきただけである。人は自分で選択した人生であっても後悔するんだろうなとつくづく思う。石田が死ぬ少し前に親族の一人である秋谷がこう呟いた。「彼はもう反省しているんだ。なにもそんなに悪者にしなくても・・・」
 東京事務長会に遅れて出席した秋谷は、壇上に着くなりいきなりこう呟いた。顔面蒼白で心ここにあらずの態であった。その後わずかな沈黙にハッと我に返ったような表情を浮かべると、事務長会のメンバーを見渡し会長指導が始まった。